皆さんNHK大河ドラマ「晴天を衝け」見ておられますか?2024年発行予定の1万円札渋沢栄一の物語ということで毎週楽しみにしております。そこで今月の言葉は、

「四十、五十ははなたれ小僧 六十、七十は働き盛り

 九十になって迎えが来たら 百まで待てと追い返せ 渋沢栄一」

現在は「人生100年時代」といわれています。年金の支給年齢繰り下げが検討されているためか、勤労者の定年も65歳、70歳と延長されていきそうです。日本の仏教界では、60代、70代がむしろ働き盛り、定年のないお坊さん業界ではまだまだ はなたれ小僧の域です。この標語も「そのとおり」と実感を持って受け止めました。

渋沢栄一は、1840年に埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)で、農民として生まれました。当時の日本は鎖国状態にありましたが、1853年ペリー来航により、幕府が開国。

多くの外国人が、日本に入ってきました。青年期、江戸に遊学中、尊王攘夷思想の影響を受け、倒幕計画を立てましたが、直前で中断し、京都へ向かったといわれています。そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕える平岡円四郎に出会い、一橋家に士官しました。その後、一橋慶喜は徳川幕府第15代将軍に、渋沢栄一は弟の徳川昭武に随行し、万博博覧会への参加、留学するため、フランスのパリへ渡航しました。

渋沢栄一は西欧の文明に驚き、日本の近代化についても必要性を感じました。

日本では、徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」が行われていました。それに伴い、渡航後約1年半で1868年に徳川昭武と共に帰国。徳川慶喜は静岡で謹慎生活を送っていたため、栄一は会いに行き、そのまま静岡藩で働くことに。

静岡藩の勘定組頭となった渋沢栄一はフランスで学んだ知識を生かし、静岡藩の資本を元本にして、商社と銀行を合わせた「商法会所」を立ち上げました。商法会所は、藩が政府から借りた「石高拝借金」と「商人の出資」を資本金として、お茶・養蚕・米などの生産に必要なものを買う資金の貸し付けを行ったり、肥料や製品を買い取るためにも使いました。「商法会所」は日本で初めての株式会社といわれています。

静岡で商業をさらに盛んにしていこうとしていく中、その手腕を買われ、商法会所を設立した年、渋沢栄一は大隈重信に説得され、民部大蔵両省で働くことに。鉄道の敷設、富岡製糸場(官営模範工場)の設置、郵便制度の創設、度量衡の統一、租税改革、新貨幣制度の設置、国立銀行条例など、矢継ぎ早にさまざまな仕事を手掛けていきます。近代社会の形成に勤しむ中、官ではなく民として日本の経済発展に寄与することを決意し、1873年には政府を辞職し、民間実業家へとなります

 

渋沢栄一は、自分だけが儲けることをせず、全て、社会のため・公益のために考え、行動を起こしました。私利私欲で、誰かが利益を独占することを嫌い、多くの経済活動、社会活動にかかわり、日本の社会全体の利益を重視し、発展していくことを目指した人物だといわれています。公益のために力を尽くし、100年近い時を経て新一万円札の顔となる「渋沢栄一」。コロナ禍で時代が大きく変わりつつある中、よりよい社会のためにどう行動するべきか、考えていきたいですね。